先日、父の供養のため京都へお参りに行った時に頂いたあるお寺の冊子に、
「これは現代によくある問題の原因をうまく解き明かして下さっているなあ」と驚いたコラムがありました。
タイトル
「自由」に縛られていませんか?
「流行の服を自由に着られる」
「人間関係に煩わされないで自由に動ける」
「好きな時間に好きな番組を自由に見られる」
「欲しいものが自由に手に入る」…
私たちは、このように自分の思い描いた通りに物事が進むと自由に出来たと思い、自由に、
つまり、思い通りに出来ることが幸せだと思っています。
(うん、そりゃそうだ!)
待つことも我慢することも、譲ったり妥協することもないのが、自由で素晴らしいと思い、それを実現しようと努力します。
(さすがにそこまでは思わないけど、ついつい自分の欲望に負けてしまうことはある。)
天候や気温に左右されない環境を用意し、
嫌な人とは関係を持たず、
個室の中に自分専用のテレビやパソコンなど、
必要なさまざまなものを持ち込みます。
制限のない時間・空間での生活を求め、
人間や世界とも自分に都合のいい距離をとり、
煩わしさのない関係で生きていくことを望んでいます。
つまり、あらゆることを私事(プライベート)化して、そういう思い通りの状況を得るための金銭を求めてきました。
しかし、立ち止まって考えてみて下さい。
そこに、爽やかな解放があるでしょうか?
そんな現実の煩わしさからの自由が、本当に私たちを幸せにしてくれるのでしょうか?
それは、むしろ私たちの成長が妨げられている姿でしよう。
(確かに嫌なことや、苦手なことから逃げ続けてたら、成長はないなあ。)
不都合から逃げる人生は、私が私として生まれた意義を見出したり、関係を生きる中でのさまざまな出逢いの喜びを遠ざけたりすることになっていきます。
私が子供の頃にある時
「テレビを見るのは僕の自由だ」と言い張って、
祖父から
「お前はテレビに縛られていて、ちっとも自由じゃないではないか」と
叱られたことが忘れられません。
(現代だとテレビの代わりにスマホがそうですね。)
私たちが自由だと思っている姿は、実は、
自分の感情や欲望や思い込みに縛られている状態(縛 ばく
という煩悩)ではないでしょうか?
(自分の欲望のままに生きるということは、不自由なことでもあるのですね。)
望んで煩悩の虜になっている、
その状態こそが煩悩なのでしょう。
つまり、煩悩に振り回されているだけの人生になっているのではないでしょうか?
(せっかく自由な時間があったのに、無駄に過ごしてしまい、後悔することがよくあります。
惰性に流されず、切り替えることが大事だと思います。)
仏教の教えで「自由」とは、自らに由る、
すなわち、外の環境と関係を持ちながら、それに振り回されない生き方、
「自己の信念」が確立した状態をいいます。
私たちがあらゆるいのちと共に
いきいきと生きることから、目をそらさせる
さまざまな物事について、
正体を見抜かねばなりません。
(先ほどのスマホについてもそうですね。)
そのためには、煩悩をごまかさずに認め、
真実を見抜いた方(覚者)の知恵に、
聞いていかねばなりません。
「仏教のぶっ 仏教はじめの一歩」より
「スマホばかりして!!」と怒る前に、
まわりの大人が、わがまま気ままな生き方を
していないか?
大人自身が自由を求めるあまりに
不自由になっていないか?
今一度見直して、行動を改めることが出来たなら、いつかお子さんにも良い影響と変化が訪れるかもしれませんね。
このコラムに、僕自身は衝撃を受けました。
みなさんはどう感じられましたか?